江嶋山 徳證寺 縁起

 
 

徳證寺の縁起(寺院のなりたちの由来を記した文書)は、『防長寺社由来』第三巻(1983年 山口県文書館刊)に以下の三点が収録されています。


①  寛保1(1741)年の縁起



当寺往古ハ常楽寺と申候て、芸州ニ御座候由、天正年中兵火のためニ堂宇延焼仕、其時の住持義淵と申僧、弥陀薬師の像并宝物等所持仕当国ニ来り、俗縁有之ニ付て此地ニ居住一宇建立して常楽院と申候続仕候。其後慶長十七年八月炎焼仕候、此時の住侶願宗沙門深ク歎キ、重て一宇建立して寺号を改候て徳證寺となづけ、初て真宗の仏閣と相成申候。右願宗以前ハ何宗ニて御座候哉相知不申候。古来の縁起宝物等数度の急火ニ焼失仕、或は紛失仕候。猶又願宗以前の世牌年号月日相知不申候。右中興願宗沙門俗名平田兵太夫と申候。此兵太夫平田氏を名乗申候由来ハ、往昔永禄年中の頃、三好義継同家臣松永久通か謀叛によって将軍義輝公には御生害なされし也。此時右兵太夫か先祖平田和泉守鹿苑寺に往て義輝公の弟周暠を弑す、依茲和泉守か二男兵部之助父の不忠を悪ミ西国に下り、漂泊の中此田屋島に居住仕、其子孫代々平田氏を名乗申候由申伝候事。
右当寺由来如斯御座候、以上

(寛保(1741)元)酉九月吉敷郡黒川村真宗江島山 徳證寺(印) 


【現代訳】
徳證寺は以前は常楽寺という寺名で、広島にありました。しかし、天正年間(1573~1591)戦火によってお堂が焼け、時の住職義淵が、弥陀・薬師の像そして宝物を持って山口の地に赴き、縁あってこの黒川田屋嶋の地に居住、そしてお堂を建立し再び常楽院の名で寺院を存続させていました。

その後慶長17年の8月また火災に遭い、時の住職願宗は深い悲しみを乗り越え再びお堂を再建、そのおりに徳證寺と改名し、正式に浄土真宗の寺院として復興をとげました。ただし、願宗以前の常楽院時代は何宗の寺院だったかはわかりません。そして古くからの縁起や宝物はこの重なった火災によって焼失したか、または紛失してしまいました。また、願宗以前の僧侶の記録も残っていません。

この中興の祖である願宗、俗名は平田兵太夫と申します。兵太夫が平田姓を名乗った由来は、永禄年中(1558~1569)に三好義継(注1)の家臣松永久通(注2)の謀叛による、将軍足利義輝(注3)暗殺事件がありました。この事件では兵太夫の先祖平田和泉守(注4)が、足利義輝の弟である京都鹿苑寺(注5)の住職周暠(のりたか)を殺害してしまいました。

この和泉守の二男兵部之助は、父のこの行為を悲しく思い、西国に下って漂白していていましたが、この田屋島の地に住むこととなり、後にこの子孫が代々平田氏を名乗るようになったと伝わっております。


(注1)河内の戦国大名(1551~1573)
(注2)三好家の家臣で
多聞山城(現奈良市)主。1565(永禄8)には三好三人衆と共に室町御所における将軍・足利義輝暗殺の実行犯として参加した。

(注3)室町幕府第13代将軍

(注4)江戸時代の軍記物である『江源武艦』(1656(明暦2)刊)によれば、松永久秀と三好三人衆による足利義輝殺害後に、弟平田大膳助とともに義輝の末弟である京都鹿苑寺住職の周高を襲撃し、殺害。しかし、周高殺害後に義輝の近習・美濃屋小四郎に討ち取られた。この小四郎はまた大膳助によって討たれたと伝えられている。
(注5)京都の有名な観光寺院でもある金閣寺のこと。





②  安永7(1778)年 の縁起

由緒書

当寺建立の由来ハ開基願宗法師、俗性ハ足利将軍の近臣平田和泉守忠宗か二男同名兵庫之助俊宗なり、若輩はなれとも文武の英才ニして殊ニ孝養の勤其聞あり、然ニ母公の世をはやふし玉ふを菩提の因として、生年十八歳の武姿を捨て京都西本願寺顕如上人を剃髪の師と頼ければ、上人大ニ褒美し玉ひ、他力本願の実機なれバとて願の字を給り、武門発心の規模をすてず俊宗の一字をよせて法名を願宗とよび玉ふ。此法師弘法利生の器なりとて上人尊命を下シ中西国の行脚を免し玉ふ、其筑紫帰りを此里の掛鍚とはなしぬ、されば当村往古ハ漁業を業とすれば自ラ鯛の島といふを中此より田屋ノ島と書ける、島人邪見にして曽て仏法の名字をだにもしらず、願宗深ク是を憐ミ、ころしも後陽成院の御宇慶長元年ニ当りて一宇を建立して専念仏の一行をすゝめしかば、人々自然と正道にうつる、依て本山顕如上人え言上して寺号蒙免許を江島山徳證寺也

右前書の通相違無御座候、以上

安永七戌ノ五月 吉敷郡黒川田屋ノ島村真宗徳證寺 瑞応(印 花押)

【現代訳】
当寺建立の由来は、開基は願宗法師、俗姓は平田和泉守忠宗の二男、平田兵庫之助俊宗といいます。若い頃から文武の秀でた俊宗は、母が早く亡くなったことをきっかけに18才で武士の身を捨て、本願寺顕如上人(注1)のもとで剃髪することを決意しました。

上人は俊宗を「“他力本願”の意を体現するかのような人物である」と感嘆し、法名には「他力本願」の「願」の字を一字とりました。もう一字については、俊宗のこの出家の動機は武士が仏教に入門する模範となるものであり、その気持ちをいつまでも忘れないようにと、武士身分の通名の「宗」をあえて残し、先の「願」とあわせて願宗と命名しました。

願宗はまさに仏教を広めるに適した聡明な人物であることから、上人は願宗に西日本をめぐって教えを広める役を任ぜられました。そして筑紫(現福岡県)に赴き帰路につく最中、この山口黒川田屋嶋の地にとどまることを決意しました。

この田屋嶋は昔は漁業をなりわいとしており、”鯛の島”といわれていましたが、のちに田屋ノ島となったということです。この島の人々は仏教を知ることがなかったので、願宗は深くこれを歎いていました。そこで、後陽成天皇が即位された慶長元年、お堂を建立して、お念仏の行をすすめたところ、人々はしだいに信仰を深めていきました。そこで、顕如上人にお願いして、寺院として認められ、江島山徳證寺となりました。

以上、この内容に間違いありません。

(注1)戦国時代の本願寺第8世門主。大坂石山本願寺に籠城し、織田信長に対し10年におよぶ「石山戦争」を戦う。本願寺光佐としても知られる。なお、現在の本願寺が東西に分裂しているのは、顕如の後継をめぐったゆえである。





③  寛政1(1799)年の縁起

当寺建立の由来、開基願宗、俗世足利将軍の近臣平田和泉守忠宗の二男同名兵庫助俊宗と申人、発心の思立ニて京都本願寺顕如上人を師と頼、法名願宗と申候。此人中西国え下り候所当所え足を止メ、慶長元年ニ一寺建立仕候、則徳證寺也。尤縁記の類は往古大水本堂の坐迄上ゲ其節水ニ流候事。

寛政十一未十月 黒川村真宗 徳證寺(印)

【現代訳】
徳證寺建立の由来を申し上げます。徳證寺を開いたのは願宗というもので、俗名を足利将軍の近臣平田和泉守忠宗の二男、平田俊宗といいます。
俊宗は仏教に入門すべく本願寺の顕如上人を師とし、法名を願宗としました。願宗は西日本に浄土真宗の教えを広めに赴いたところ、山口黒川田屋島の地に住まうこととなり、慶長元年に寺院を建立し、徳證寺といたしました。
お寺の由緒書などは、その昔大水が本堂まで押し寄せたことがあり、その時に流れてしまいました。


【 解説】
徳證寺には三つの縁起が伝わっていまして、それぞれ江戸時代の①寛保、②安永、③寛政期の住職の手によるものです。

この三点の縁起が収録される『防長寺社由来』は、当時、寺院を統括していた寺社奉行が、管轄内の寺院の由緒書を提出するように要請し、時の住職が提出したものです。

提出時にすでに開基より200年が経っており、これらがどこまで史実であるかはうかがい知れませんが(近世に作られた寺社の縁起には虚飾も多く含まれることが多くあります)、開基は願宗なる僧で、室町幕府13代将軍足利義輝の弟、金閣寺主の周嵩を暗殺した武将、平田和泉守忠宗の二男、平田俊宗という人物であるようです。

戦国時代はいわば下克上の世の中でありましたが、戦乱の世を経て、一応は世が安定していた江戸時代とは主君に忠義を尽くすことが絶対化される世の中でした。ゆえに、江戸時代の徳證寺の住職にとっては、自らの祖先が謀叛に関与したというのは、名誉なことではなかったのかもしれません。

①の縁起では、願宗がこの父の不忠を歎いて出家したとありましたが、②の縁起ではその出家の動機が母の死を弔うためだったとされています。上記のような理由から、その動機がいわば意図的に改ざんされたのかもしれません。
③の縁起は明らかに②の縁起を受けて書かれていると思われますが、願宗の出家の動機が省略されています。後代に至っても徳證寺の起源がこのように謀叛に関係していたことは、当時の住職には何かひっかかるものであったのかもしれません。





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